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時代とOKI

第10回 ダイヤル式電話機の生産移管とプッシュホン登場

1958年(昭和33年)からの10年間をOKIでは「600形時代」と呼んでいます。「電話機のOKI」として常に新しい電話機を生産し、業界をリードしてきたOKIが、1960年代を通じて量産してきたのがダイヤル式「600形電話機」だったからです。しかし、交換機が電子式に切り替わったように、電話機にも電子化の波が押し寄せてきていました。OKIも電子式の「プッシュホン」の開発・生産に体制を移行。600形電話機生産の移管を決断します。

プッシュホン開発に向けた動き

1967年(昭和42年)4月に日本電信電話公社(以下「電電公社」)が「10年後の電信電話のビジョン」を発表しました。プッシュホンの普及、短縮ダイヤル、出先から電気器具のスイッチ操作をするテレコントロールなどなど――現在では一般的なサービスとなっていますが、当時は画期的なこうしたサービスが具体的な目標として列挙されています。そして、これらサービスを実現するために喫緊の課題となったのが電話機の電子化でした。

時代はまさにいざなぎ景気の真っ只中。カラーテレビ・クーラー・自動車が「新三種の神器」としてもてはやされるなど、日本経済は大きく拡大しているところです。こうした時代背景にあって、「プッシュホン」と命名されたトーンダイヤル方式専用の電話機が、電子化の第一弾として1969年(昭和44年)5月17日に発売されます。


ダイヤル式電話機の最後を飾る600型電話機

当時のOKIは1963年(昭和38年)8月に電電公社が策定したダイヤル式600形電話機の仕様が決まって以来、同年に建設された本庄工場において、600形の量産を積極的に行っていました。同工場は世界トップクラスの電話機専門の量産工場を目標として建設され、工場レイアウトを含めて、当時としては革新的な設備を備えていました。量産向けのノンパーティション(全館一室)方式、徹底した品質管理を目的とした全館空調、従来手作業で行われたヤスリ・穴開け・ねじ立て工程のオートメーション化などを実現。日産2,500~2,800個までの生産実績を有し、生産効率においても他社を凌駕する体制を築いていました。

花形商品「600形電話機」の生産移管

1969年(昭和44年)、OKIの経営陣は重大な決断を下します。永らく花形商品として事業に貢献してきた600形電話機の生産移管です。本庄工場はOKIにとって電話機生産の最前線。主流はプッシュホンに移るとの判断からでした。

移管先は東京・品川にある大興電機製作所。同社は1932年(昭和7年)にOKIの社員が独立して始めた会社で、戦後は電電公社とOKIの支援のもとに発展し、資本金4億円、従業員1200人の中堅企業に成長していました。関係会社としてOKIとのリレーションも確立されており、電電公社の育成政策も相まって、同社に生産移管することが決まったのです。両社の合意のもと、1970年(昭和45年)から本庄事業所において600形電話機生産の教育・研修を実施。ベルトコンベア方式による量産技術を各20数名が交替で繰り返し修得していきました。


600形電話機の初出荷時の様子

移管決定から2年後の1971年(昭和46年)3月、OKI製としては最後の600形電話機が送り出されます。1963年(昭和38年)11月に電話機を満載したトラックが「沖の600号電話機」と大書した段幕を巻いて東京に向かって以来、390万8,706台目の電話機でした。主力商品を手放すセレモニーは、製品に関わってきた従業員の胸中はもとより、企業が時代の変遷にあわせて脱皮を迫られるという意味で象徴的なシーンでした。

プッシュホンの生産を本格化

電電公社の「10年後の電信電話ビジョン」に基づく新しいサービスを創出していくという意味において、プッシュホンに向けられた期待は大きなものでした。OKIは独自の技術で付加価値を付けたプッシュホンを開発していきました。


オキ・ビジネスホン(ボタン電話装置)

具体的には、1966年(昭和41年)年に4種類のビジネスホン(ボタン電話装置)を発売。これは超小型の電話交換機のようなもので、回線の選択・保留・転送・話し中表示などの機能を実装し、主に事務所用として注目を集めました。1968年(昭和43年)には自動ダイヤル、1971年(昭和46年)には自動通報装置を開発。自動通報装置は、磁気録音と自動ダイヤル技術を組み合わせてメッセージを自動送信する装置で、警備会社の非常通報装置として重宝されました。

こうした中で、1971年(昭和46年)に本庄工場の増設工事が完了します。本庄工場は当時の売上の柱となっていたクロスバー交換機の製造を担当するとともに、本格生産が見込まれていたプッシュホンの生産拠点として新たな役割を担うことになったのです。同年4月には、プッシュホン600形の生産を本格化。最後のダイヤル式600形電話機を見送った余韻が冷めぬうち、OKIは装い新たな本庄工場で次代の扉を拓いていくことになったのです。

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