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時代とOKI

第2回 起業、そして事業拡大へ

明治という時代は、我が国における産業の近代化の幕開けでもありました。特に1895年(明治28年)に日清戦争で勝利を収めて以降、空前の起業ブームが巻き起こります。それに先駆けて10数年、沖 牙太郎は日本の通信事業の曙となる明工舎を創立します。そこにはベンチャースピリットともいうべき、彼の先見性と挑戦心が宿っていました。

「ヤルキ社」の結成

新来の電話機模造に取り組んでいた時期、すでに製機所の中核を担う技術者となっていた牙太郎は、同僚の三吉 正一、田岡 忠次郎、若林 銀次郎らと、製機所内に「ヤルキ社」というグループを結成しました。ヤルキ(情熱)とエレキ(電気)を掛け合わせたシンプルかつ意欲満々の命名でした。

「ヤルキ社」は本来の仕事とは別に、中堅技術者を中心に電機材料の国産化を進めようという、いわば研究グループです。若林、田岡の二人が電信用モールスインキと炭酸紙を製作し、三吉は絹巻き線製造機を考案。牙太郎もまた紙製ダニエル電池と漆塗り線を開発し、いずれも輸入品抑制に貢献したとして、工部省から表彰されています。


電信局の下請工場を営んでいた石丸安世邸

この実績が牙太郎に大きな自信を与えるとともに、独立自営の野心を芽生えさせました。通信は国の安全・経済活動に不可欠な生命線であり、海外に依存するわけにはいきません。故に政府も国産化奨励の方針を打ち出しており、すでに自分たちの努力でそれを叶えることが可能になっているという自信と見通しを抱いたのです。

一方、製機所は設備の増設とともに、技術者や職工の数も拡充の一途にありました。当然、そこでは派閥の原理が働き、複雑な人間関係が牙太郎の意欲を阻害する空気が放たれつつありました。そのことも、牙太郎のベンチャー精神に拍車をかけたのです。

事業家 牙太郎の素顔


顕微音機の推定図外観

1881年(明治14年)、牙太郎は東京 京橋新肴町のレンガ造り2階建て建物の一角に明工舎を創立します。華々しさとは無縁のスタートでしたが、行動を共にした同僚、後輩は10数名におよび、牙太郎が多くの信頼を得ていたことがうかがわれます。

独立後、いきなり祝砲ともいえる快挙が飛び出します。初の国産電話機の開発でした。この「顕微音機」と名付けられた電話機は、この年の3月に上野公園で開催された内国勧業博覧会で明治天皇の目に止まります。明治天皇から受けた無言の励ましは、「国のための事業を」という彼の信念をさらに強固にしていきました。

牙太郎は、なかなかのアイディアマンでもありました。沖電機工場の名を大衆に拡げる上で、絶大な効果を発揮したのが、浅草・凌雲閣でのデモンストレーションでした。これは、浅草公園内に建てられた12階建ての塔で、物見高い江戸っ子は「十二階」と呼び、連日押し掛けました。牙太郎は、その12階と1階に電話を架設。公衆電話がない時代に、人々の好奇心に応えたのです。

事業拡張への歩み


政府の電話拡張計画に伴い増築した京橋新栄町工場

国内通信網の整備という国家目標のもとに、政府は超大型の電話拡張計画を発表します。1896年(明治29年)~1902年(明治35年)までの7カ年を期間とする「第一次長期計画」です。

これを事業大成のチャンスと捉えた牙太郎に雑念はありませんでした。彼は15年間の技術的、資金的な蓄積をすべて注ぎ込んで、一大工場の建設に乗り出しました。そこには、外国資本の新鋭機に、国家の神経網ともいうべき電話を席巻されてはならないという使命感もありました。

沖電機工場は電気通信メーカーの最大手としての地位を確立します。国内市場におけるライバルは、当時、世界最大の電話機製造会社であったWE社しかありませんでした。ところが「第一次長期計画」の最中である1898年(明治31年)、牙太郎のもとにそのWE社から資本提携の申し入れがありました。熟考の末、牙太郎はその提携を断念します。そこには「企業は社会の公器であり、国家に忠誠を尽くすもの」という信念と、自身の事業と技術に対する自負心を垣間見ることができます。

その一方で、自分の健康が損なわれつつあることを実感し、自分が達者でいるうちはいいが、WE社が実権を握った際の従業員の行く末を気遣っていたのです。従業員への愛着は、後年、沖商会を従業員参加の合資組織にしたことにも表れているといえるでしょう。

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