第7回 「ミリ波のOKI」として世界を席巻
高度経済成長にあってOKIもまた業容を拡大していきます。それは通信機メーカーからエレクトロニクスを包括した総合メーカーへの変貌でもありました。そのエポックの1つが「ミリ波」通信への挑戦です。
ミリ波マグネトロンの開発に成功
東京通信工業(現ソニー)がトランジスタラジオを発売し、一世を風靡したのが1955年(昭和30年)。日本企業はこの時期、電子の動きを制御するエレクトロニクスの領域に続々と参入していきます。OKIもまた当時の社長 神戸 捨二のもと、電子分野における研究開発に情熱を傾けることになります。その1つがミリ波(波長1~10㎜、周波数30~300GHz)への挑戦でした。
当時はマイクロ波(波長1m以下、周波数1~100GHz)全盛の時代でしたが、通信では波長が短いほど伝送の多重化が可能になります。つまり一度により多くの情報を伝送できるため、他の研究所・メーカーも競うように波長を短くする研究に取り組んでいました。OKIはその中で一歩先んじて画期的な製品を世に送り出します。1955年(昭和30年)の春から大阪市立大学とともに取り組んできた「ミリ波マグネトロン」です。マグネトロンとは発振用真空管の一種。強力なマイクロ波を発生させるため、現在もなお、放送、通信、レーダー、電子レンジなどに応用されています。
OKIは同年12月に国内で初めて、波長7㎜のミリ波を発生させるマグネトロンの開発に成功。電電公社通信研究所から「今後の通信界を変革させる第1段階」、学界から「物質構造、原子物理学の発展に貢献する」と賞賛されることになります。
「ミリ波のOKI」として世界をリード
ミリ波クライストロン
しかしながら、ミリ波マグネトロンは「ミリ波」を断続的に発することしかできず、そのまま伝送に応用することはできませんでした。余韻に浸る間もなく、OKIはミリ波を連続的に発生させる機器、「電子管クライストロン」の開発に着手。3年後の1958年(昭和33年)に我が国で初めての成功を収めます。
ミリ波を伝送に使えるようになったという快挙は世界中に衝撃を与えました。ベル研究所、RCA、ヒューズ、NASA、COMSAT、ロッキード、ダグラスをはじめ、海外の超一流企業や機関、有名大学から問い合わせや発注が殺到。1962年(昭和37年)にはアメリカ航空宇宙局(NASA)が打ち上げた「通信衛星テルスター」の地上局に設備され、これを皮切りに多くの衛星地上局が採用。OKIの名声は海外に轟くことになりました。
OKIはさらなる飛躍を求めて1961年(昭和36年)4月、八王子事業所に世界で唯一のミリ波電子管専門工場を建設。開発したミリ波電子管は約60品種に及び、高出力・高安定度・長寿命との評価を受け、世界における「ミリ波のOKI」の名を不動のものとしていきます。
ミリ波技術とレーダー技術を融合
戦後、OKIは先進技術を導入するために、積極的に海外企業との技術提携を推進しましたが、その1つが1954年(昭和29年)に結んだレーダー技術に関する米レイセオン社との提携でした。その結晶としてレーダー雨量計が生み出されます。OKIの「ミリ波」の技術は、このレーダー技術と融合し、新たな市場を切り拓くことになります。
雨量測定はそれまで、測定地点に漏斗(ロート)型などの雨量計を設置して、溜まった雨量を計測していました。それをレーダーの反射で雨量を割り出すことで、広域の総雨量を瞬時に把握しようというのがポイントでした。きっかけはアメリカの気象関係の学会論文。雨滴からの電波の反射に関する研究が多いことを知り、さらに調べてみると降雨量と電波の反射に相関関係を見つけたのです。
OKIらしい独創的な着眼点でした。レーダーに使うミリ波マグネトロンは世界最高水準の独自製品があり、必要な演算装置や表示装置も自社製造できるとの判断のもと、OKIはシステムの開発に踏み切りました。1961年(昭和36年)に誕生したレーダー雨量計は「CPM6」と名付けられ、国立防災センター、建設省、電力会社などから大きな注目を集めました。
栄えある1号機は科学技術庁の人工降雨研究協会九州支部に納入され、熊本県人吉市に設置。人工降雨実験の効果判定用にも使用され、新事実の発見・解明に貢献しました。ほかにも国立防災センターでは洪水予防の研究用に、東京電力ではダム上流の降雨量研究に使われるなど、OKIの研究開発者たちが傾けた「ミリ波」への熱い挑戦は、他のエレクトロニクス技術と結び付きながら「応用」のフェーズへと向かい、私たちの生活に寄与する製品へと昇華していったのです。