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時代とOKI

第3回 近代メーカーへの布石

創業以来、純国産化を貫いてきたOKIでしたが、自動電話交換機の国産化に当たり、その普及が進んでいた英国企業との技術提携に踏み切ります。そこでは従来の職人技能の集合体とは一線を画した近代的な生産システムが確立されていました。

将来に向けた2つの指針

政府の第二次・第三次電話拡張計画を踏まえて、電話の架設は明治・大正を通じて順調に推移していました。そこに起きたのが、1923年(大正12年)に関東一円を襲った関東大震災です。その際、電話の復旧にOKIが身を粉にして動いたことはいうまでもありません。連日、社員が総出で交換機や電話機の生産に、復旧工事に、材料の手当てにと、まさに不眠不休で当たりました。

関東大震災は、日本の電信・電話の将来について2つの指針をもたらしました。1つは災害時における有線通信の脆弱さを踏まえて、かねて計画中であったラジオ放送が開始されたこと。もう1つは、耐震性に優れ、不測の事態での復旧が容易な自動交換機の導入でした。この技術は発明こそ1887年(明治20年)と古かったものの、膨大な投資により手動交換機の市場が形成されていたこともあって、欧米でも実用化に至ったのは数年前のことでした。


当時の本社・田町工場

1926年(大正15年)1月20日、京橋電話局で日本初となる自動交換が開始されました。日本の電話事業にとって、まさに歴史的な節目でしたが、OKIの心中は複雑でした。自動交換機設備のすべてが海外メーカーに発注されていたからです。電話設備の復旧に向けて大車輪の活躍をみせていたOKIも、将来を見据えると自動交換機設備の国産化、自社開発に目を向けないわけにはいきませんでした。

その背景には、交換機の磁石式から共電式への切り替え時における苦い経験があります。主要部品はWE社製の輸入品に占められ、OKIはその国産化に努めましたが、複雑な部品を自社生産することは至難の業でした。それに特許という壁もありました。結果、OKIの共電式交換機が逓信省の検査に合格し、市場に投入されるまでには、WE社製の輸入から10年の歳月が費やされたのです。

GE社との提携に込めたOKIの決意


ピール・コナー工場全景

当然ながら、今回の自動式交換機の技術水準は、共電式のときよりさらに大変になると予想されました。そこで元逓信次官であった内田 嘉吉顧問を欧州視察に向かわせ、イギリスのGE社と代理店契約を結びました。しかし、その真意は技術を吸収して自動交換機の国産化を目指すことにありました。間髪入れず技術提携に関する契約を調印。直ちに技術者をGE社の電話機器製作所であるピール・コナー工場に派遣しました。

一方、日本では芝浦工場の建設に着手。第1期完成に伴い、臨時自動創設部が発足しました。その中核を担ったのがピール・コナー工場で経験を積んだメンバー、そして技術指導役となるギャンブル、オルダーマンという2人の英国人技師でした。創業以来、純国産主義を貫いてきたOKIにとって、外国人技術者の起用はまさに画期的なことでした。

自動交換機の国産化に注力


自動交換機製造のため建設された芝浦工場

ギャンブル、オルダーマンの着任後、工場にはGE ピール・コナー製の自動交換機、スイッチ部品、治工具、ゲージ、材料見本、工作機械などがイギリスから続々と到着。2人の外国人技師の指導のもと、同じ治工具を使い、統一されたゲージで品質管理を行い、計画的な工程管理のもとに生産を進めるという新しい文化が注入されました。

このことは、それまで工場で働いていた社員に大きなショックを与えました。というのも、当時の沖電機の工場では、組長(親方)を頂点に各分野の熟練工・職人が1つのチームとなって生産性と技能の向上を目指す「連合請負制度」がまだ色濃く残っていたからです。とりわけ強い職人気質を持っている組長が、新しい生産の仕組みに大きな戸惑いを感じたことは想像に難くありません。

一方、ピール・コナー工場で経験を積んだ3人は、生産管理・品質管理の必要性を痛感し、新しい芝浦工場では古い作業慣習を改めようと相談していました。複雑で精巧さを要する自動交換機製造においては、従来の徒弟的な職人技術の集合体ではとても追いつかないと実感していたからです。

このような改革を踏まえて、1928年(昭和3年)末には自動交換機の各機構・部品は自社製に成功。自動交換機に対するニーズは、OKIをまさに近代メーカーへと向かわせたのです。

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