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時代とOKI

第5回 戦後、電話の復興へ向けて

国土の大半が焼け野原となった戦後日本。復興への第一歩はライフラインの回復にありました。OKIは壊滅的な被害を受けた電話の復旧に奔走します。資材難という悪条件と闘いながら、電話機ならびに電話交換機の生産を再開。「復興のシンボル」といわれた4号形電話機の開発においても大きな役割を担います。

電話の被害状況とOKIの取り組み

戦災による電話施設の被害はまさに壊滅的でした。特に主要都市における加入者の戦災率は、原爆が投下された広島の100%を筆頭に、東京87%、横浜99%、大阪89%といったありさま。戦災を免れた電話の方が奇跡的でした。

このことが明治以来、常に我が国の電話事業を最前線で担ってきたOKIの使命感を駆り立てました。芝浦工場の復旧工事と同時進行させる形で電話機の生産をスタート。終戦翌年の1946年(昭和21年)1月には、早くも磁石式電話機500台を逓信院に納入し、電話復興の先駆けを築きました。

そこには多くの苦労も伴いました。資材難のため、戦時中の臨時規格品や代用品を使う以外に方法がなく、熟練した技術をもってしても故障などのトラブルに見舞われました。工場では毎週2回、不良対策会議を開き、材料の検査、設計変更などを実施。検討を繰り返すことで悪条件と闘ったのです。

戦後の電話復興は資材不足、設備の不備、電力不足などを背景に、拙速主義を取らざるを得ず、十分な品質を担保できませんでした。そこで復旧から復興へ向けて、新しい電話機へのニーズが顕著になっていきます。

異例の開発体制で生みだした「4号形電話機」


4号形電話機

電話の復旧と足並みを揃えるように、終戦の翌年には当時の逓信院電気試験所が、新形電話機の開発計画を発表しました。このプロジェクトには、OKIを含めた国内メーカー4社が参画(後に6社で試作機を開発)。共同開発は、特許を含めて、各社が工場や製造技術も相互に公開しながら試作を行うという、異例の全面協力体制が組まれます。そこには、戦後復興のためのインフラをより強固にすべきというビジョンと、日本の電話機を世界のトップレベルに昇華させたいという強い思いが込められていました。

このプロセスを得て産声を上げたのが、「復興のシンボル」ともいわれた4号形電話機です。3号形電話機の通話音声は、キンキンとした明瞭度の悪い「電話声」で、戦後は材質の低下もあり「聞こえにくい電話機」というイメージが定着していました。

新形電話機は、「通話品質の向上」を最優先に、送話機と受話器の改良に重点を置いて開発。その結果、1933年(昭和8年)に採用されて以来、主流となっていた3号形電話機と比較して、30倍もの感度を実現したのです。その後いくつかの試行錯誤を経て、1948年(昭和23年)8月に目標を達成する4号形電話機の試作に成功。ここに初めて、世界水準を凌駕する国産電話機の見通しが立ったのです。

4号形電話機は、デザインも流線型の斬新なものでした。これはOKIの工業意匠顧問であった富永 直樹の手によるもので、設計思想は長く、安心して使える電話機。独特な筐体デザインは、生産性や壊れにくさを十分に考慮した結果でした。

命運をかけて開発・量産を推進


電話機モールド工場(1959年)

4号形電話機は1949年(昭和24年)に各社共同による現場試験用の量産体制に突入します。OKIでは全社動員体制に基づく「4号電話機推進部」を設置し、万全を期した体制で臨みました。ちなみに1949年(昭和24年)に、OKIは企業再建整備法に基づき沖電気を解散し、第二会社・沖電気工業株式会社を設立しています。4号形電話機の量産試作はその翌年のこと。新生OKIはまさに電話機トップメーカーとしての命運と誇りをかけて、開発・製造に取り組みました。

4号形電話機は各メーカーが量産し、1963年(昭和38年)まで電信電話公社の発注のもとに、約400万台が生産されます。その中でOKIの生産台数はおよそ150万台。部品は各社の分担だったにもかかわらず、全部品の自社製造も行うなど電話機トップメーカーとしての確かな存在感をここに示したのです。

なお、4号形電話機は「赤電話」の呼び名で親しまれた公衆電話の元祖でもあります。当初電話は黒色でしたが、1953年(昭和28年)8月に店先で目立つようにとの配慮から、公衆電話専用として赤色に塗布されます。評判は一気に高まり、利用者は急増したといいます。

日本のトップメーカーが協力し合い、我が国の電話機技術を世界トップレベルに押し上げた4号形電話機。それは通信機業界における復興のシンボルであるとともに、次の高度経済成長時代の幕開けを予感させるエポックでした。

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